寂しいお別れ

 町内でお弔いの放送があった。うまく聞き取れなかったせいもあるが。名前を聞いただけではピンとこなかった。隣の奥さんが、どこどこのだれだれさん・・・と教えていただいたのだが、…ということは、随分と長い間お出会いしていなかったということ。もう10年近くもなるであろうか、編み物など手芸がお好きな方で、楽しんでおられたが、腰が曲がってついに動くことが厳しくなられ、ご夫婦二人きりなものだから八幡の施設に入っておられる…と聞いていた。

 大きなお屋敷で立派なおうち、きれいに暮らしておいでだったが、子供さんたちはよそへ嫁がれ本家の跡取りがおられなくなってしまっていた。一緒に力併せてくらしを守ってこられたのに、晩年ついにその家に住むことなく、亡くなってもすべてが葬祭場では、家って何なんだろう…と思わずにいられない。自分の最後がどんな形になるかわからないのに、他を批判することはお叱りを受けるかもしれないが、子供さんたち、それで心痛まないのか…と思う。

 仏教関係のあるご本に記してあった。自分が亡くなってから、懐かしがられる親「存在」であるような生き方を心掛けなさい…と。なるほど…とは思うけれど、自分の意志で自由が利かなくなった時、本当にどうすればいいのか、迷うところだ。
県政報告会の後の懇談の中で、一人暮らしのご高齢の方が、、「最近、高齢独居を対象にアンケート調査があった。あなたはどんな最期を迎えたいですか?  子供に見守られて…・病院で…介護施設で…  こんな酷な調査、どう思われます? 寂しいのはわかっているけど、一人で暮らすしか仕方ないから、頑張って生きているのに…此れが福祉の配慮だとしたら、ちょっと異議あり…です。」と。あなたが望むように死なせてあげます…と言わんばかり。いえいえ違います…それもわかるけど、立場が変われば受け止め方もまるで正反対。気を付けなければ・・・と感じました。