すみれ島

 朝起き会に寝過ごした。4時30分、大慌てで顔を洗いペタペタと顔にくっつけて飛び出した。能登川の会場、すでに始まっていた。この会に遅刻したのは初めて・・・たるんでいるのか、体力が落ちているのか…

 ちょっとお話を…と昨日聞いていたのに、申し訳ないことをした。もともと原稿は準備しない方だけど、行く道中、メガネを忘れていることに気付いた。心中穏やかでない。

 この時期、私は「すみれ島」の話をすることがある。いわゆる特攻隊の話…。8月6日、9日。15日…平和を考える集いには、ジーンと熱くなる。若いころ。お話おばさんをして放送を流していたころ。素語りを聞いて、私もやってみよう…と始めたもの。

すみれ島   今西裕之

九州の南の端に近い海辺に
小さな学校があった。
昭和二十年、春のこと、
毎日のように日の丸をつけた飛行機が
学校の真上を飛ぶようになった。

生徒たちは そのたび
バンザイをさけんで、手を振った。
すると飛行機はゆっくりつばさを振って
海の向こうへ飛び去った。

先生たちは知っていた。
片道だけの燃料しか持たないで
爆弾とともに
敵の軍艦に突入する
特攻機であることを。
そして、最後のサヨナラをしていることを。

だが、子どもたちは 
飛行機が 何度も
学校に飛んできているのだとばかり
思ってよろこんでいた。
そして 手紙を書いて
「こんどは もっと大きくつばさをふってください」
そんなことをいっぱい書いた。
手紙を出してから、
ほのうにつばさを大きくふってくれるように
思えた。

手紙や絵を書き飽きた頃、
ひとりの女の子が言い出して
すみれの花束をおくることにした。

みんなで摘んで、
代表が先生と一緒に届けに行った。

するといく日かして学校に手紙がきた。

すみれの花を たくさんありがとう。
ゆうべは とてもたのしい夜でした。
ぼくは 小さい頃 よく
すみれの花ですもうをしました。
すみれの花を絡ませて引っ張りっこをします。

きのう、たくさんのすみれをいただいたので
みんなで それをやりました。
悪いなと思いながら、花が無くなるまで
やりました。

毛布の中を花だらけにしたまま
寝てしまいました。

かすかに いいにおいがしました。

今、出発の号令がかかりました。
みなさん、ありがとう。
ゆうべは ほんとうにたのしい夜でした。
いつまでもお元気で。サヨーナラ。

先生は、声をつまらせて読み終えると、
「この手紙を書いた方は
もう、南の島で、戦死しているのですよ。
もう、いらっしゃらないのよ・・・」
そういって、生徒の前で泣いた。
そして、先生ははじめて
特攻機のことを、くわしく話した。

その日から、子どもたちは
野原にすみれの花が無くなるまで
花束を作って、おくりつづけたのであった。

いく機の特攻機が
子どもたちのすみれを持って
南の海に散っていったことだろう。

そんな特攻機のいくつかは
途中で故障して
だれも知られずに
海や島についらくしていた。

戦争がおわって、いく年がすぎた。
南の島の無人島のひとつに、
いつからか、いちめんに
すみれの花が さくようになった。

今も海辺の人たちは
名前が無かったその島のことを
<すみれ島>とよんでいる。